菜種生産の限界に挑むカナダ

2.会議のポイント

明治維新後、最初に印刷技術の必要性に迫られたのは明治政府で、日本の歴史において印刷インキが初めて大量に必要とされる時期が訪れました。新しい紙幣の発行のため、政府は印刷技術を学び、利用する必要性に迫られたのです。紙幣には特に高度の印刷技術が求められますが、当時の日本にはそのような技術は存在しませんでした。何とか工夫して最初の不換紙幣(太政官札)が発行されましたが、紙質が悪いことに加え、印刷も精巧を欠くため模造(偽札)が容易であるという問題を抱えていました。現実に偽札も横行し、紙幣の信用下落をもたらしたと伝えられています。
印刷インキ工業連合会「印刷インキ工業史」(1985年7月15日発行)によれば、大蔵省(現財務省)印刷局が当時の印刷に用いられたインキの分析を行っていますが、その結果は微量のため分析する方法がなく、「植物性油を用いたと思われるが不確定」としています。

図2 太政官札 金拾両(1868年)

資料:独立行政法人国立印刷局ウェブサイト

政府は1871年に新貨条例を定め、1872年から新通貨制度(10進法による円、銭、厘)へ移行するため、新紙幣の印刷をドイツの印刷会社に委託することとなりました。でき上がった新紙幣(明治通宝札)はゲルマン紙幣と通称され、その精巧さ、堅牢さは、当時の日本にとっては驚嘆に値するものでした。このゲルマン紙幣を発行するに当たり、「明治通宝」などの押印が行われましたが、この時に使用された「朱、藍、緑」の印肉(インキをこのように称していた。)は、原料の一つである「顔料」を輸入品に依存したものの、日本が開発した最初の印刷インキとして記録されるべきものでした。ちなみに、このとき用いられた植物油はアマニ油とエゴマ油であったとされています。

図3 ゲルマン紙幣 金拾円券  (1872年)

資料:図2に同じ

1871年には明治政府はアメリカにも紙幣の印刷を委託し、新通貨制度への移行という大事業を成し遂げたのですが、自国紙幣の印刷をいつまでも外国に依存するのではなく、自国の印刷技術によって発行するべきであるとの考え方に立ち、紙幣発行をつかさどる組織として大蔵省に「紙幣司」を設置します。紙幣司はその後「紙幣寮」に改組され、紙幣の印刷技術と印刷インキの開発・改良を推進することとなりました。
紙幣寮の航跡は、紙幣の印刷にとどまらず、日本の印刷技術の開発者としての役割を果たすものでした(紙幣寮は、その後、紙幣局を経て印刷局へと改組されます)。

1872年は、新通貨制度の実施だけではなく、郵便制度が発足し、国立銀行条例が公布された年でもありました。政府は、紙幣だけではなく切手、証券類の印刷も手掛けることとなり、印刷技術の改良は紙幣寮の喫緊の課題となっていました。印刷技術にとって重要な印刷インキについても、当初こそ原材料を輸入に依存しなければなりませんでしたが、国産印刷インキの開発研究が本格的に進められました。
紙幣局に設置された製肉部(インキ製造・開発を行う部署)は、フランス人技師を指導者として招聘して印刷インキの開発と印刷技術改善の努力が続けられ、1877年に国産第1号の紙幣発行にこぎつけました。
印刷局によるその後の歩みは省略しますが、いつの時代にあっても新しい紙幣はその時代の最高峰の印刷技術を駆使して発行され、品質の高い印刷インキの開発がそれを支えてきました。今日、日本の紙幣は世界で最も美しく、模造が不可能な精巧さと堅牢さを誇るものとなりましたが、そこには明治維新政府から脈絡と続く印刷技術の歴史がありました。

図4 国産第一号の壱円紙幣

資料:図2に同じ
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