印刷技術は、16世紀末にイエズス会の宣教師により日本にも導入され、信者に聖書の教えを広めるパンフレット(ローマ字表記だったそうです)などに使用されました。しかし、豊臣秀吉による「伴天連追放令」(1587年)から江戸幕府による1612~13年の禁教令「伴天連追放之文」の公布により、印刷技術は、印刷物とともに棄却される運命が待っていました。さらに、その後の鎖国令の実施によって新たな技術導入の道も閉ざされることとなり、日本における印刷技術はここで断絶の時期を迎えることとなりました。
1700年代になって宗教以外の目的であれば印刷することが認められたのですが、製造技術の欠如によりインキが自由に調達できないという問題がありました。江戸時代後期においては、銅版印刷など自前の技術開発を試みる事例もありましたが普及するには至らず、日本における印刷の普及は、明治維新による文明開化を待たねばなりませんでした。
無論、連続式印刷だけが印刷技術ではなく、水性染料を用いた木版や瓦版による複写技術の発展が書籍や絵画の複写を広める役割を担い、浮世絵版画や草紙類が発行され絢爛たる大衆文化の高揚がもたらされたことはご存じのとおりです。ただ、これらの複写技術は、片面刷りしかできなかったこと、水濡れなどにより染料が流れることなど撥水性や堅牢性が備わっていないという印刷術としての欠陥がありました。
また、印刷ではありませんが、アマニ油やエゴマ油などの乾性油は塗料や撥水剤として、家屋のべんがら塗りや和傘の上塗りに用いられていました。
歴史に「もし?」は禁句ですが、禁教令や鎖国制度が実施されず、西洋から到来した印刷技術が普及していたら、彫り師や刷り師などの職人芸は生まれず、北斎や広重の鮮やかな浮世絵版画などの江戸文化は別の道をたどることとなったかもしれません。
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