少し旧聞に属しますが、リーマン・ショックという言葉をご記憶でしょうか。
アメリカは2000年代初め、低所得者向け住宅金融であるサブプライムローン制度の普及によって住宅バブルの様相を呈していました。しかし、ローン利用者の債務不履行が広がるにつれて住宅バブルは崩壊し、深刻な信用不安とともに経済が急速に冷え込むという経験をしました。
この不況は、アメリカとの信用取引関係を深めていた各国の経済にも波及し、世界同時不況という状況をもたらすこととなりました。
アメリカは、この時期の不況を第二次世界大戦後に経験した最大規模の不況であったと位置付けています。特に、サブプライムローン証券に多額の投資をしていた大手投資銀行リーマンブラザーズ社が債務不履行に陥って倒産したことから、この時期の経済不況をリーマン・ショックという言葉で象徴するようになりました。全米経済研究所(National Bureau of Economic Research)は、この不況は2007年12月に始まり、2009年6月に終焉したとしていますが、その後においても、世界各国の経済回復にとって重い足枷となりました。
不況の深刻化は、失業の増加と所得の減少をもたらし、市民の生活を直撃しました。2007年12月~2009年10月の間に、アメリカの完全失業率は5%から10.1%と2倍に拡大し、不況終焉後もその影響は払拭することは難しく、ごく最近でも完全失業率は6%台となっています。
雇用環境の悪化と所得の低下に対し、ほとんどの家庭は家計支出を減らすという行動で防衛に務めざるを得ませんでした。家計支出の節約は緊急性のない物品・サービスの購入を節約することに始まり、やがて日常生活に不可欠な食料への支出さえ抑制する方向へ進みます。このことが、アメリカ国民の日常の食生活に大きい変化をもたらしました。
(1) 不況は家庭外食料への支出を減少させる
図2は、不況の時期をはさむ2000~2011年の間に、アメリカの家庭において年間1人当たりの食料費支出額がどのように変化したかについて、家庭内で消費される食料(at home food。以下では、「家庭内食料」と表現します。)への支出と、家庭外で消費される食料(food away from home。以下では、「家庭外食料」と表現します。)への支出に分けて示しています。
バブル経済が進行していた期間、家庭内食料への支出額が緩やかな増加にとどまっていたのに対し、家庭外食料への支出額は2006年まで急速に増加し、食料費支出総額に占める割合は42%を超えることとなりました。また、国民健康栄養調査(National Health and Nutrition Examination Survey)では、一人1日当たり摂取カロリーのうち家庭外食料から摂取されるカロリーの比率が、1977/78年の18%から2006年には32%にまで高まったことが報告されています。食生活の外部依存は多くの国で見られる現象ですが、アメリカでは、それが極端な形で進行したことを窺い知ることができます。
【 図2 家計における食料費支出額の変化 】
年間1人当たり金額(ドル)家庭外食料費支出の割合(%)
資料:アメリカ農務省経済調査局「Food Expenditures Briefing Room」
注 :「家庭内食料」とは、食料品店、ネット通販、自家農園、その他の農園などで取得し、家庭内で摂取された食料の総称。「家庭外食料」とは、家庭内食料以外の外食店、ファストフード店、バー、スポーツジム、自動販売機、路上販売、宅配ピザなどで摂取・購入される食料の総称。したがって、食料品店で購入し、家庭で消費される調理済み食料や加工食品は、家庭内食料に含まれる。
しかし、不況期間である2007~09年に、その様相が一変しました。この期間に食料品の価格は年平均3.8%上昇したにもかかわらず家計の食料費支出額は5%減少し、食料品購入数量が減少したことを物語っています。特に、家庭外食料支出額が12.9%の大幅な減少となりましたが、家庭内食料支出額は1.6%のわずかな減少にとどまったことが特徴的でした。家庭内食料支出額の減少が小幅にとどまったのは、プレカット・フルーツ、調理済みサラダなど利便性の高い食品(したがって、価格も高い)への支出を抑制する一方で、価格が相対的に安いスーパーのプライベートブランドなどの購入量を増やしたことによるものでした。
不況を脱却した2010年から、この双方への支出は漸く増加に転じ始めましたが、2011年においてもまだ不況前の水準には復していないことが分かります。
(2)食料価格は消費の動きに遅れて反応する
図2で、不況が家庭における家庭外食料への支出を抑制したことが分かりました。それでは、食料品の価格はどのように変化したのでしょうか。食料品の価格も、家庭における食料消費支出に大きい影響を及ぼす要因となります。
図3は、同じ期間における食料品の消費者価格指数の変化を示しています。食料品の消費者価格は、家庭内食料、家庭外食料ともに、不況のさなかであった2007~2008年においても堅調に上昇を続け、その後、上昇率が緩やかになったことが分かります。このように、不況下にありながら食料品の価格がなお上昇を続けていたことも、図1に見たような食料支出額の抑制を促進した要因の一つとなっていました。そして、食料支出額の変化に遅れて食料品価格が反応(低下)するという傾向が、不況前後を通じて観察されました。
【 図3 食料品消費者価格指数の変化(都市部) 】
対前年同期増減率(%)
資料:アメリカ農務省経済調査局
注 :経済調査局が、労働統計局「消費者価格指数」を用いて推計したもの。
(3) 不況がもたらしたその他の影響
不況は、人々から労働機会と所得を奪い、家計の食料消費支出を抑制させ、その結果、食事のパターンにも変化が生じました。これらにとどまらず、不況は人々の経済的利害や精神的な面にも様々な影響を及ぼしました。これらについては、次のような調査結果が報告されています。
①健康保険の利用機会の減少
幾つかの調査・研究では、雇用者負担による健康保険制度を享受できる人達の割合が、
2007~2010年の間に10%・ポイントも低下したことを指摘されています。また、低所得者向け医療保障制度が普及したにもかかわらず、それらの恩恵を全く受けることのできない人達の割合が、同じ期間に16.3%から19.5%に高まったことが指摘されています。保険加入金が支払えなくなったことがその要因ですが、そのために健康を維持することが困難になることは、人々のモラルハザードに影響を及ぼしました。
② ストレスの増大
職業の喪失と所得の減少という経済的負担に耐えることは、人々の精神的ストレスを高め
ることが知られています。そして、ストレスへの対処が、多くの場合、栄養学的に好ましくない食生活をもたらすことが知られています。例えば、食べることでストレスを発散しようとする行動は、家庭外食料消費を増やす方向に向かわせ、食事の栄養学的な質を低下させます。その一方で、節約の意識が強すぎると、過少摂取に陥ることも生じます。
失業によって、人々が健康維持に気を遣わない傾向が高まったり、お酒の飲みすぎに陥ることも明らかにされ、また、長期の失業が自殺者の増加をもたらしたとする報告もあります。
③ 家庭で調理することが増える
失業は好ましいことではありませんが、仕事で働く機会が減少したことによって、家庭内で食事を準備することが増えたとの調査報告があります。食事を作るようになっただけではなく、家族で食事をする機会も増えました。このことは、食事の栄養学的な質を高め、子供の精神形成にも良い影響を与えました。その反面、新しい仕事探しなどに時間を費やさねばならないことが、家族団らんを損ねたこともありました。
④ 適度の運動の実行に影響
働く時間が減少したことは、運動に費やす時間を増やす反面、テレビ鑑賞やその他の動かない生活習慣を増やすことにもなります。不況の間に失業によって余った時間の30~40%は家庭内の労働に費やされたものの、同じく30%の時間がテレビ鑑賞と睡眠に費やされたという調査報告があります。また、そのような生活時間への影響は、個人の教育水準によっても異なることが指摘されています。
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