ひまし油のお話し

3.我が国のひまし油の歩み

 我が国の植物油は、古くから灯明用として発達してきました。鎌倉時代から江戸中期まではエゴマ油が灯明用油の代表で、菜種の到来に伴って江戸時代後期から明治時代にかけては、油といえば菜種油のことを意味していました。我が国で、植物油は食用に広く利用されるようになった歴史は意外に浅いのです。

 大正6年(1917年)、ある製油業者が以前から手がけていたエゴマ買い付けのために朝鮮(当時)に出張した際に、たまたま目にとまったヒマシを試験的に買い付けて帰ったのが、我が国におけるヒマシ搾油のさきがけとなったと言われています。しかし、原料が入荷して搾油に取りかかったものの、全く未経験の厚い皮に包まれた種子で、しかも油の高粘度に悩まされ、長年の経験を持つ搾油の熟練工でも相当苦しんだようです。特に粘度の高い油の精製には、“おり”を抜く工程に苦労し、失敗を繰り返したようですが、なんとかひまし油を作り上げ、まず薬用と石鹸用に利用され、次第に用途を広げ、レザー用、蠅取り紙用、ロート油用へと需要が広がりました。

 戦時下の昭和初期には、ひまし油の製油所は海軍軍需工場の認可を受けて飛行機の潤滑油用に軍に納入されていました。当時としては凝固点が-17℃のひまし油に優る潤滑油は、他にはなかったようです。

 戦争によって一旦は中断したひまし油の生産は戦後間もなく再開し、昭和30年からの“神武景気”、その後の高度成長期にかけてひまし油の生産量も急速に伸びていきました。

 当時、我が国へのヒマシ原料(種子)の供給は、タイ国が60~70%を占めていましたが、ヒマシの生産国は付加価値を高めるために自国で搾油を行い、原料ヒマシ種子の輸出を禁止してヒマシ油だけを輸出する方針を打ち出し始めていました。すでにブラジルとインドは原料ヒマシの輸出を禁止しており、タイからの原料輸入も昭和54年(1979年)10月までで終了しています。その後は、フィリピンや中国からのヒマシ原料を輸入し、ひまし油の搾油が続けられましたが、中国で大型の搾油工場が相次いで建設されたことから原料ヒマシの輸入が一層困難になり、平成7年(1995年)、日本のひまし搾油の歴史に幕を下ろすこととなりました。

 1990年代はじめ、ブラジル、中国及びインドが世界の三大ヒマシ生産国を形成していましたが、1994年に、このうちブラジルの生産量が1990年以前の30万トンから6万トンに急減し、三大生産国から滑り落ちました。中国は、28万トンとまずまずの生産量を確保しましたが、活発な国内需要を反映してヒマシ種子の輸出がなくなるとともに、ひまし油の輸出も急減しました。そして、インドだけが豊作を続け、約70万トン近い水準の生産量となって、全世界の供給量の60%以上を占めることとなりました。この時期に生じた変化が は現在まで続いており、インドは約90万トンまで生産量を拡大し、世界の供給量の約70%を占めるに至っています。そして、日本のひまし油のほぼ100%がインドからの輸入によるものとなっています。

【 図3 ヒマシの収穫と出荷 】
収穫した穂 天日干しと脱穀 脱穀したヒマシ種子 ヒマシ種子の袋詰め
収穫した穂 天日干しと脱穀 脱穀したヒマシ種子 ヒマシ種子の袋詰め
写真:伊藤製油(株)提供
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