昨今、食育の大切さがとみに語られ、食育基本法の制定も議論されています。さまざまな意味での食に関する教育が必要であることはいうまでもありませんが、食育を考えるとき、最も重要な根本とは何でしょうか。また具体的な食育とはまず、どのような場面で、いかに始めるべきものでしょうか。戦後、栄養三色運動をはじめ、日本人の食生活と教育について、たゆみない普及活動を続けてきた近藤とし子先生にお話をうかがいました。
社団法人栄養改善普及会会長
近藤とし子先生
現代の日本は飽食の時代を迎えています。おなかは満腹になったけれど、どこか心が不安で満たされない人が多いのではないでしょうか。そんな時代だからこそ、「食育が大事である」という考え方が生まれてきたのだと思います。
歴史をたどってみると、多くの国民が命を捧げた第二次世界大戦が終わったとき、生き残った国民たちは「せっかく助かった命なのだから、亡くなった人のためにも国のためにも、健康で長生きして働こう」と努力したものです。そうして一生懸命働いているうちに景気がよくなり、高度経済成長の時代がやってきました。貧しかった日本が急速に豊かになり、国民が総中産階級といわれるようになったことで、輸入食料品やファストフードが上陸してきたのです。
かつて女性は主婦専業で“奥さん”と呼ばれ、台所を自分の職場としていましたが、高度経済成長期には外へ出て行くようになり、“おソトさん”と呼ばれるようになりました。その影響で、手作りの“おふくろの味”が出来合いのお惣菜やレトルト食品などの“お袋の味”へと変わっていったわけです。そのせいで子供たちはキレるようになり、アレルギーも増えてきました。栄養士が調べたところ、今の子供たちの好物は「ハハキトク」。つまりハンバーグ、ハムエッグ、ギョウザ、トースト、クリームスープということで、みそ汁など“おふくろの味”は見当たりません。“おふくろ”が“お袋”に変わった現状に疑問を持つ私たちは、日本人の遺伝子に適した食べ物を作って食べるべきだと訴えるために、1953年に栄養改善普及会を発足させました。
もともと日本人の食事というものは、一汁三菜の和食でした。ご飯にみそ汁、漬物にプラスアルファということですね。味噌や酢、醤油、酒、漬物など、酵素を含む発酵食品が多いのは、雨が多く暖かい日本の風土に合っていたからです。今と比べれば貧しい食生活ではありましたが、それが日本人の遺伝子に合った食事だということを昔の人はきちんと知っていたのです。そういう昔の人たちはまた「子供は寒く、ひもじく育つべし」と考えていました。寒ければ自分で動き、ひもじければ自分で台所に行って何かを食べるでしょう。つまり自主的になるということです。昔の人は本当の意味での“食育”を知っていたといえるでしょう。
昔から「三つ子の魂百まで」といいます。人は3歳までに得たものが一生の生き方になるということです。食べ方も生き方も。どう食べるかはどう生きるかにつながります。栄養学的にいっても、2歳くらいでよちよち歩きを始め、自分の意志で行動するようになり、3歳で味覚を含む五感が完成します。そこで3歳までに、きちんといい味を覚えさせなければならないのです。また脂肪細胞も幼児期、3歳頃までに増え、それからあとは減らせなくなってしまいます。その意味でも3歳までの食生活がとても重要になるのです。
食育とは、このように昔の日本では当たり前であったことであり、私たちもその大切さを長く訴えてきたつもりです。ですから今になって急に食育が話題となり、国が基本法を制定しようという動きになっていることには疑問を感じずにいられません。
食育とは「自育」ともいえます。食事などを通して子供を育てることで、母親も自分を育てるということです。子供は自分自身の鏡であり、子供に教わることも多いのですね。その一環として、私は「子育ては台所で」とおすすめしています。今まで「台所は女の城」といわれてきましたが、これを「家族の城」にして、子供と一緒に料理をすべきです。その中で子供はたとえば生のほうれんそうはかじると苦いけれど、ゆでるとおいしくなるということを知り、子供用の小さい包丁を持たせてやれば喜んで野菜を刻むことを覚え、「野菜も生きてるんだ。大事にしなきゃね」ということを学ぶわけです。このように“食”と“農”を連帯させることも大切でしょう。こうした日常の行為や教育こそが本当の食育なのですから、国会での議論だけにお任せするべきものではありません。国や行政に頼るのではなく、昔の人のように子供と一緒に考えていくことが重要なのです。