アメリカの大豆搾油業の黎明

2. アメリカ大豆の父、ウィリアム・モース医師

 ペリー提督率いる東インド艦隊来航から45年後の1898年、アメリカ農務省(USDA)に種子及び植物導入課(Section of Seed and Plant Introduction)が設置されました。その名称のとおり、このセクションの主要業務は、科学者を世界中に派遣し、アメリカ農業にとって経済的に有用な新しい作物を探索・収集することにありました。
 このころ、日本は日露戦争ののち満州地域における権益を拡大し、満州産大豆をヨーロッパに輸出し、また、満州に搾油工場を建設して大豆搾油を行っていました。ヨーロッパでは、満州から輸入された大豆が搾油され、大豆油は主に洗剤の材料、ミールは家畜飼料として利用されていました。アメリカの農家とUSDAは大豆栽培と大豆搾油に関心を抱き、1898~1928年の30年間に、科学者を中国、日本、韓国、インドに派遣し、3000に達する大豆サンプルを収集したとされています。
 アメリカでの大豆栽培が広まり、後述するように大豆搾油業の進展が見られた1929年、USDAはウィリアム・モース(William Morse)氏とハワード・ドーセット氏を、東洋における農業資源探索のため、日本、韓国、中国東北部(満州)へ公式に派遣しました。ドーセット氏は、滞在期間のほとんどを野菜、果実、飼料用牧草の探索に費やし、一方、モース氏は主に大豆品種の収集と東アジアの大豆産業を学ぶことに滞在期間を費やしました。モース氏は1929~31年にわたる3年間の派遣期間のほとんどを日本に滞在し、大量の大豆品種を収集しました。これらは、その後のアメリカの大豆生産に多大の貢献をしましたが、特に、アメリカで蔓延していた病害に対する耐性を有する品種の育成にそれらが有効なものとなりました。モース氏は1949年に退任しますが、その時には大豆はアメリカの主要農産物の地位を確固たるものとしており、関係者はモース氏を「アメリカ大豆の父」と呼び、大豆に対する氏の長年の功績を称えました。
 余談ですが、モース氏とそのご家族は日本滞在中に日本食のファンになり、なかでも「すき焼き」がお好みの料理だったそうです。

【 図2 日本の農業を視察するモース、ドーセット両氏 】
(足踏み水車による水田の灌漑)
図2 日本の農業を視察するモース、ドーセット両氏
資料:アメリカ農務省” The History of U.S. Soybean Export to Japan”
   (2009.1.23. Gain Report JA 9502)より

【 図3 八丁味噌を手に取るMorse氏 】
図3 八丁味噌を手に取るMorse氏
資料:Soyinfo Center提供

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