アメリカの大豆搾油業の黎明

1. 日本の漂流船のプレゼント

 世界最大の大豆生産国であるアメリカに、最初に大豆を紹介したのは意外にも日本でした。大豆生産と大豆搾油の起源は中国で、大豆は6~7世紀に韓国を経由して日本に伝えられたとされています。日本では、肉食を禁忌としていた仏教の教えから、動物性たんぱく質に代わるたんぱく質源として大豆を利用した多様な食品が発達したのは、よくご存じのとおりです。
 では、アメリカにはどのようにして大豆が伝わったのでしょうか。それは、意外にも日本の漂流船がきっかけでした。

(1)商船オークランド号とエドワード医師

 1850年12月、アメリカの商船オークランド(Auckland)号が、香港から砂糖などの商品を積載してサンフランシスコに帰還する途中で、日本の樽廻船「栄力丸」が難破して漂流しているのを発見しました。鎖国制度下にあった日本では、外洋の航海を前提とする船舶が作られていなかったため、沖合で事故に会うと漂流して救助の僥倖を待つだけという運命が待っていました。オークランド号は17人の乗組員を救助しましたが、鎖国下の日本へは寄港できないため、彼らをサンフランシスコまで連れ帰りました。

 この救助された17人の中に濱田彦蔵氏がおられました。濱田氏は紆余曲折ののちキリスト教に改宗してアメリカに帰化した最初の日本人で、Joseph Hekoと改名し、開国後の日本で最初の新聞の発行を手掛けるなど、日米両国で活躍した方です。
 救助された17人は、船の中で豚が屠殺され、調理されるのを見て、「この野蛮人どもは、いずれ自分たちを殺して食べるかもしれない」という恐怖に襲われたとの逸話がありますが、慣れるにつれ、「ローマにいるときは、ローマ人に従え」と開き直られたそうです。もっとも、これは本題とは関係がありません。オークランド号がサンフランシスコに着いた後に、アメリカと大豆とのかかわりの歴史が始まります。

 サンフランシスコで、17人は外出を許されませんでした。その理由は、彼らが病原を保持しているかもしれず、それが周辺に拡散しかねないという疑念が持たれたことによります。これを救ったのが、ベンジャミン フランクリン エドワード(Benjamin Franklin Edwards)氏でした。医師であるエドワード氏は、濱田氏らを診察して病気の心配はないと判断され、17人は外出が許されることとなりました。その感謝の意を表するため、濱田氏らはエドワード医師に保持していた大豆をお礼に差し出されました。これが、アメリカに大豆が伝わった最初の瞬間でした。エドワード医師は、ニューヨーク農業学会、マサチューセッツ園芸学会と特許庁(Office of the Commissioner of Patents)にその大豆を提供しました(1862年にリンカーン大統領の指示によりアメリカ農務省が発足するまで、農業に関する業務は特許庁の所管でした。)。これらの機関は、その大豆種子を農家の間に広め、アメリカの農家が大豆を栽培する最初の動機となりました。アメリカにおける大豆のサクセス・ストーリーがここから始まりました。

(2)黒船とペリー提督

 1853年にペリー提督が率いる東インド艦隊が浦賀沖に停泊したことは、「太平の眠りを覚ます蒸気船」として日本の歴史において鎖国政策の解除に結びつく大事件でした。しかし、この艦隊に日本の様々な調査を行うための調査団が同行してきたことはほとんど知られていないことです。このうち農業調査を担当したのは、ジェームス・モロー(James Morrow)氏でした。氏は医師であるとともに農業への造詣が深く、アメリカから持参した農業機械のデモンストレーションを天皇の上覧に付し、アメリカ農産物の種子を献上することが主たる役割でした。しかし、氏が命ぜられていたより重要な使命は、日本の農産物や植物の種子の収集でした。氏は、このとき1500~2000にのぼる農産物の種子を収集したとされています。その中に、日本豆と呼ばれる奇妙な豆がありました。それが、大豆でした。帰国後、モロー医師は大豆種子を特許庁に送り、特許庁は全米の農家に配布して栽培を試みました。

【 図1 アメリカ東インド艦隊旗艦サスケハナ号 】
図1 アメリカ東インド艦隊旗艦サスケハナ号
資料:ウィキメディア コモンズ

 「栄力丸」の乗組員から得た大豆種子、ペリー調査団から得た大豆種子は全米で育ち、農家から高い評価を得ることとなりました。彼らから、大豆が有する価値についての報告が特許庁に送付され、メディアにも多くの記事が掲載されました。1855年のある農業関係紙には、「自分は3年間大豆を栽培し、カナダからテキサスまで栽培を試みた。この高い能力を有する作物(大豆)は、とうもろこしが栽培されている地域(現在のコーンベルト地帯)での栽培が適しており、18~24インチの条間をもって栽培するのが適切である。鶏や豚には加熱処理をしてから給餌するのが良い」とする中西部の農家の談話が掲載されていました。この文章から、大豆は家畜の飼料として利用されたことがうかがえ、「大豆は飼料作物である」との位置づけが、今日まで連綿として継続してきた背景となっているのかもしれません。


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