日本の菜種油生産は、国内産菜種を基盤として発達してきました。大豆の輸入が自由化された(1961年)のちも、菜種は政府による保護政策が実施され、菜種は輸入割当制度の下にありました。しかし、菜種の生産は1950年代末から急速に減少の一途をたどりました。その最も大きい要因は、米の生産サイクルの変化でした。
それまで日本の菜種生産は、秋に稲を収穫したあとの水田に畝を立て、菜種の苗を移植し、稲の田植えが始まる梅雨時前に収穫するサイクルが広範に採択され、稲~菜種の二毛作によって支えられてきました。小学唱歌「おぼろ月夜」に歌われる菜の花畑の情景は、このような二毛作サイクルによってもたらされていました。
しかし、国の食料政策において米の自給が最重要の政策課題となるなかで、米の収量を上げる技術の一つとして早期の田植技術が普及することとなりました。田植えの時期は、梅雨の時期から5月、4月へと順次早まり、その結果、田植前に菜種を収穫する二毛作のサイクルが成立できなくなりました。そして、各地から菜種生産が急速に姿を消していきました。
1972年、米の増産により自給が達成されますが、それはまとまった菜種生産の終焉を意味するものでもありました。当時、国産菜種に依存して各地に1000を超える菜種製油工場が稼働していましたが、国から菜種の輸入割当が得られない工場は存立基盤を失うこととなり、ほとんどが廃業しなければなりませんでした。
図1は、1955年から1970年までの菜種の搾油数量の推移を示すもので、1960年代初めから国産菜種の搾油数量が激減したことから、輸入菜種への依存を高めざるを得なかった状況を示しています。
【 図Ⅰ 我が国の菜種搾油量の推移 】
(単位:トン)
菜種の輸入が自由化されたのは1971年ですが、そのころ、日本植物油協会はカナダへ何度も代表者を派遣し、ダブル・ロー品種開発の促進を強く訴え、カナダにとっては新規開発作物であるキャノーラを、日本の製油業界が責任をもって引き受けることを約束しました。資金的な協力や技術協力も話題になったようですが、カナダは自国の重要課題としてダブル・ロー品種の開発に邁進しました。カナダにとっては、新規に生産を拡大するキャノーラについて、日本という安定した需要先が確保できたことがキャノーラ開発に拍車をかけるものとなりました。カナダの菜種関係者が、現在においても日本に対して特別の親近感を寄せる背景には、このような事情がありました。
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