日本の大豆搾油業の黎明

6.これからの課題

 日本の大豆搾油業の黎明は、ここまで述べましたように満州という当時世界最大の大豆生産地の存在によってもたらされました。しかしその後の歩みは決して平坦ではなく、第一次世界大戦終結後の世界不況の到来、日本におけるデフレーションの進行など多くの苦難が待ち受けていました。しかし最大の試練は、第二次世界大戦により満州という大豆の供給基地を喪失したことにありました。大連やその他の地域に建設されていた製油プラントのすべても失い、終戦後、改めてゼロからの出発をしなければなりませんでしたが、満州で培われたノウハウがそれを支えました。
 ところで現在世界最大の大豆生産国であるアメリカは、そのころどんな状況だったのでしょうか。アメリカで製造される植物油は綿実油が牽引してきましたが、大豆搾油が1911年に開始されたとされています。しかしその後も第一次世界大戦に至る10年余りは大豆油の供給を日本からの輸入に依存していました。
 アメリカが現在のような大豆の大生産国になるきっかけは、第二次世界大戦でした。アメリカでは「大豆の供給を増やすことが、戦争に勝利することである」というキャンペーンを掲げて大豆の増産を図り、1942年ごろに世界最大の大豆生産地となり、世界最大の搾油国になります。そして第二次世界大戦後に日本への大豆供給国となり、日本の搾油業の復興の原動力となりました。

 今回は日本の大豆搾油の黎明に至る状況を簡単にお示ししました。その後の歴史は、また改めてご紹介いたしましょう。

 *本稿は、アメリカの大豆情報センター(Soy Info Center)のホームページに掲載されたHistory of Soybean Crushingのアブストラクトを基礎に、若干の資料を参考にして既述したもので、データ等を原典に詳細に照会したものではなく、また翻訳はすべて当協会の責任において行ったものです。

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