「うつくしい元気人に関する調査」結果発表!
講師プロフィール:
奥村彪生(おくむらあやお)

 1937年和歌山県生まれ。伝承料理研究家。奈良女子大学非常勤講師。
 奈良時代から大正時代、漫画「サザエさん」の料理の再現など、日本や世界のいろいろな料理を研究。平成6年度食生活文化賞受賞。平成13年度和歌山県より文化功労賞受賞。著書に「ごはん道楽」(雄鶏社)、「健康和食のすすめ」(海竜社)など。TV、ラジオなど多方面で活躍中。
1.古代日本人が食べたピラフ ~奈良時代

 本日は「日本の食文化と植物油」というテーマで、いかに日本人が植物油につき合ってきたかというお話をさせていただくのですが、実は日本は植物油とはあまりつき合いのない国でした。戦前まで、正確には戦後5、6年頃までは、油脂欠乏型というべき食文化を営んでおり、これは世界でも非常に珍しい食文化です。
では、まったく植物油を食べてこなかったかというと、そんなことはありません。古くは奈良時代に「油飯(あぶらいい)」という料理がありました。平安時代の辞書『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に、この「油飯」についての解説があり、「ごま油にて飯を炊く」といったようなことが書かれています。日本には室町時代までは油で揚げたり炒めたりという調理技術はありませんでしたので、これはおそらくご飯を炊くときに、水と一緒にごま油を入れて炊いたものだろうと推測されます。

 この料理がどこから来たのか、ここからは私のロマンめいた想像ですが、ペルシャ人がもたらしたのではないかと思っています。現在でもペルシャ(現イラン)では、ご飯を炊くときにはごま油で米をよく炒めてから炊きます。ごまはアフリカが原産で、アフリカからペルシャを経由して中国に入り、中国から日本に伝わってきました。ごま=胡麻の胡という字はイランの辺りを指す言葉です。飛鳥や奈良の時代には、日本にもペルシャ人がやって来てましたから、「油飯」もペルシャ人によって伝えられたというのは大いに考えられる話です。

 「油飯」と同じルーツを持つのが「ピラフ」です。「ピラフ」というのはフランス語ですが、その語源は、古代インドの言葉であるサンスクリット語の「プラーカ」です。これは「一鍋の飯」という意味で、日本語的に言えば「同じ釜の飯を食った仲」ということです。「プラーカ」がのちのインドやペルシャで「プラオ」となり「パラオ」となります。それがペルシャからトルコに伝わって、今度は「ピロー」と発音が変わります。さらにオスマントルコが攻め入ったときフランスに伝わって「ピラフ」となります。

 一方、アラビア人が剣とコーランを持ってイベリア半島に攻め込んだとき、「パエーリア」が生まれます。そこが米の名産地だったこと、魚介類をよく食べる地域だったことで、魚介類たっぷりの料理になるわけです。ちなみに「パエーリア」とは浅い鉄鍋のことです。

 その後、スペイン人がアメリカに移民すると「パエーリア」も一緒にアメリカに渡り、ニューオリンズの名物「ジャンバラヤ」になります。この料理名の由来には、あるエピソードがあります。旅人が夜遅くホテルに入って腹が減ったというので、コックさんが残り物でパエーリアを作って出しました。それがあまりにもおいしかったことに感激した旅人が支配人を呼んだら、支配人は怒られるのだと勘違いして、「ジャンがやった」と答え、それが「ジャンバラヤ」という料理名になったというのです。

 このように、食文化というのは人の移動によって広がっていきます。この料理に関して言えば、使われたのはおそらく植物油でしょう。油が人をつないだと言ったら、ちょっと言い過ぎでしょうか。
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