日本の味“マヨネーズ”
2.日本とマヨネーズとの出会い

  マヨネーズと日本の出会いは、明治維新後の文明開化であったと考えられます。様々な分野で西洋文化が導入され、食生活もその例外であるはずがありません。明治時代のグルメ誌(?)にマヨネーズらしきソースのレシピが紹介されているとの記事があり(前述「マヨネーズ大全」)、高級洋食店ではマヨネーズが提供されていたことが窺えます。これらは現在のようなサラダ用ではなく、肉料理・魚料理に添えるソースの一つだったようで、庶民にとっては高嶺の花、これが日本に根付くには、まだ数十年の歳月を必要としました。

  日本のマヨネーズ普及の歩みには、一人の先駆者の名前を挙げなければなりません。その人の名は、「中島董一郎」氏。現在のキユーピー株式会社の創立者です。

  1912年、農商務省(現在の農林水産省と経済産業省の前身)の海外実業練習生としてイギリスへ向かう船中で、中島董一郎氏はもの思いに耽っていました。氏の胸中は任務の重みへの期待と不安でいっぱいであったと書けば月並みですが、実は先ほど食したオレンジ・ママレードの味が脳裏を離れなかったのです。しかしその中島氏もこの先アメリカへ渡ることとなり、さらに氏のライフワークとなる衝撃的な味に出会うことになるなどとは夢にも思わなかったことでしょう。

  イギリスで缶詰(これが氏の本来の渡欧目的でした)を学んでいた氏は、第一次大戦の進行でやむなくアメリカへ渡ります。しかしこの予定外の移動がなければ、日本のマヨネーズの歴史は異なった道を歩むことになったかもしれません。

  アメリカでも主目的は缶詰の勉強でしたが、日常の食生活でマヨネーズが待ち受けていました。中でも氏のお気に入りはポテトサラダ。理由は安くて満腹感が得られ、栄養的にも優れていることで、当時の政府からの給費額の範囲で生活するための選択であったのかもしれません。しかしこの美味なる味を演出したマヨネーズは、氏の脳裏に鮮明に焼き付けられたようです。

  企業家精神に富んだ中島董一郎氏が遊学の過程で偶然に出会った二つの食品が、帰国後の氏のビジネス人生を規定していきます。ただマヨネーズが世に出るには、帰国後も数年の歳月が必要でした。はやる思いを抑えて時機到来を待つことも、氏のビジネス哲学だったのかもしれません。もし氏が高級洋食店に足繁く通うことのできる身分であれば、マヨネーズともっと早く出会ったかもしれません。しかしそのことでマヨネーズがもっと早く世に出ることにはなったかどうかは保証の限りではありません。

  人々が洋食に親しみ、街にはモボ・モガが風を切って闊歩する大正時代。“時はいま”とばかりに、満を持して日本最初のマヨネーズが市販されたのは1925年のことでした。とはいえ、当時の日本の野菜料理は主に“煮物”“おひたし”“漬け物”で生野菜を食べる風習はまだ一般的ではなく、価格も高いマヨネーズの初年度の売り上げは、なんと128函、容器入り個数にしてわずか4,600個(1函3ダース入りとして計算)と伝えられています。

  ところでマヨネーズに先立つ1924年、日本初の“サラダ油”が登場します。この二つの商品は、大正デモクラシーと称される進取を謳歌する時代を背景に、日本の食卓を大きく変えるターニングポイントを示すシンボルであったのではないでしょうか。マヨネーズはサラダ油との二人三脚で華々しくデビューを飾ったのです。


【 図2 第1号マヨネーズ 】

図2 第1号マヨネーズの写真

提供:キユーピー株式会社
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