京のあぶらやさん

2.老舗、それとも新参者?

油屋は1軒だけだった?

 幕末の歴史はほどほどにして、本題に戻りましょう。 油小路と聞くと、油屋が軒を並べていたのではないかと想像しますが、「いや、油屋 はうちだけどしたが、米屋や肥料商人で油を扱っていたんはいたようです。この道が油小路と名付けられたのは、京都南部で生産される油がこの道を通って都へ運ばれたからで、油小路は産業道路みたいなもんやったんですな。」と西川さん。京都の南、そこには商業的油生産発祥の地であり、油祖神と崇敬される山崎離宮八幡宮が鎮座しています。その一帯は古くはエゴマの産地であり、時代を下って菜種の産地となり、江戸時代には菜種油の搾油が盛んに行われていました。 近くには塩小路という通りもあり、産業道路として特徴的な名前が付けられたという西川さんのお説が裏付けられます。

ところで、西川さんが語られる油屋とは「油を製造し、販売する商人」のことで、販売だけを行う商人は油屋とは呼ばなかったそうです。西川油店も、油屋としてもともとは搾油工場を操業されており、今のお店から少し南へ下ったところにあったそうで、創業以来、油の製造業者・販売業者として店を営んでこられました。搾油業をお止めになったのは、大正8年(西暦1919年)で、近代的な搾油工場が各地に建設された頃でした。

文明開化がもたらした危機

 西川油店の操業開始は天保6年(西暦1835年)ですから、約180年の歴史を有 しておられますが、300年、400年をもって老舗とする京都では新参者なのかもしれません。ご当代は第6代目。慶應義塾大学に学び、アメリカにも遊学された西川さんは、32年前に父君のご逝去により油店を継承されました。 「当時の京都には、うちのようなあぶらやは40~50軒ありましたが、いまは、うちだ けが残っています」。一時期は30人以上の社員を抱え、ガソリンスタンドも経営されていましたが、いまは植物油だけを取り扱うお店として、ご夫婦お二人だけで切り盛りされています。

 西川油店がこの地で操業を開始された理由は、優れた立地条件にあったのではないでしょうか。 一つは、先に述べたように、京都南部の油生産地と都との接点に当たる場所であったことです。 もう一つは、お店の西北には西本願寺、東南には東本願寺という巨刹があり、その周りを大小の末寺が取り囲んでいることです。当時の油の主な用途は灯明であり、多くの寺社が存在することは、油の需要者がすぐそばにいることとなります。西川油店を支えた理由の一つは、このように恵まれた立地条件でした。多くの寺門総本山が位置し、今も1000を超える寺社が存在する京都であればこそ、西川さんのような油店が成立したのでしょう。ただ、宗派の抗争もあり、東と西のいずれに与するのかと旗色鮮明にすることを求められて、お困りだったこともあったようです。  「油屋の最初の危機は、明治維新どした。ガスや電気が登場し、灯明需要が激減しました。そのころは、うちも藍玉、茶、油粕、塗料などを扱って商売の手を拡げたようです。しかし、結局は油専業に戻りました」。 しかし、明治の文明開化は灯明需要の衰退というマイナス要素だけではなく、一方では西洋料理が導入され、食用油の需要を拡大する契機にもなりました。とはいえ、瞬間的に油屋が蒙った被害は、結構大きいものだったようです。多くの仲間が油商売から撤退する中、西川さんのご先祖は懸命に油店を守ってこられました。

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