日本植物油協会は、1962年(昭和37年)1月末に設立総会を開催し、同年2月末に政府から社団法人の認可をいただきました。当時の協会の名称は「社団法人日本油脂協会」でした。
1962年は、どのような年だったのでしょうか。この年、東京都が世界初の1千万人を超える人口を有する都市となりました。そして東京オリンピック開催に向けて、東海道新幹線、首都高速道路などの建設が急ピッチで進められていました。堀江謙一氏が小型ヨットで太平洋横断の快記録を打ち立てられたのもこの年でした。スポーツでは作新学院高校が史上初の高校野球春夏連覇を果たし、栃若時代を築いた横綱若乃花(初代)関が引退されました。
経済社会についてみると、日本経済は「高度成長」と称される経済発展の途上にあり、国際化へ向けた開放経済体制への変革が急ピッチで進むさなかにありました。政府は2年前の1960年に「貿易為替自由化計画大綱」を定め、貿易の自由化を急速に推進することとしていましたが、食料・食品の貿易については、国内農業保護の視点から、多くが輸入割当など政府の管理下に置かれていました。植物油の原料である油糧種子もその例外ではありませんでしたが、協会発足の1年前、1961年に大豆をはじめほとんどの油糧種子(菜種、からし菜、落花生を除く。これらも1971年には自由化されました)の輸入が自由化されました。これを機に製油企業は自らの責任で原料を確保することが必要になりました。自由化へ向けて準備をしていたとはいえ、割当という政府の制度に庇護された状態から、自己責任を伴う自由な取引への移行は厳しい試練であり、海図がないまま荒海に船出するようなものであったかもしれません。
また、この前後に近代的な製油装置・機械が相次いで導入され、主要な港湾において新しい製油工場の建設が集中的に進められました。 日本油脂協会発足時の、我が国の製油事情を一覧表にしたのが表1です。
【 表1 1961年の主要製油産業指標 】
製油工場数
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1,099 |
うち、原料処理10トン未満/日 |
911 |
原料処理10~50トン/日 |
139 |
原料処理50トン以上/日 |
49 |
原料処理50トン以上/日 |
963,870 |
うち、国産大豆 |
4,410 |
輸入大豆 |
959,460 |
菜種搾油数量(トン) |
257,680 |
うち、国産菜種 |
230,780 |
輸入菜種 |
26,900 |
植物油生産量(トン) |
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うち、大豆油 |
170,974 |
菜種油 |
99,284 |
資料:日本油脂協会「製油要覧」(1964年版)
この当時、1,000を超える製油事業所があったことに先ず驚きます。正確な統計がないのですが、現在(2012年)の製油事業所数は45程度と見込まれますので、この50年間に事業所数が24分の1に減少したことになります。この時代の製油業の特徴は、港湾部に立地して主に輸入大豆を搾油する大手企業と、国産菜種に依存して全国に展開する小規模な企業が併存する二重構造にありました。しかし国産菜種の供給量は、昭和31年(1956年)をピークに急速に減少に転じます。そしてそれに伴って、小規模な菜種油製造事業所が改廃に追い込まれました(図1参照)。
国産菜種の減少は、1961年に制定された「農業基本法」に基づいて展開された基本法農政のなかで、日本農業にとって重要な作物ではないと位置付けられたこと、生産性が低く農家の収益向上に寄与しないこと、稲の移植(田植え)の時期が早まり水田二毛作が困難になったことが大きい要因となりました。国産菜種生産は昭和40年代半ばに壊滅状態となり、小規模な菜種油製造所のほとんどが廃業に追い込まれました。これが我が国の製油業界が蒙った、最初の大きい構造変革であったと言えるでしょう。
【 図1 菜種供給量の推移 】
(単位:トン)
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