「私は何にもしてません。町の人が自分で考えてやってはるんです」。大山崎町教育委員会生涯学習課の寺嶋千春さんが悪戯そうな笑みを浮かべて語ります。 そうですね。でもやっぱりあなたが仕掛け人でしょう。
京都府の南部、大阪府と境を接する地に大山崎町があります。「天下分け目の」形容語で語られる天王山はこの地にあります。本能寺に織田信長を誅殺した明智光秀と、天下取りの好機到来と策す羽柴秀吉はこの地で戦い、天王山の地の利を生かした秀吉が勝利した故事が「天下分け目」の形容語となりました。禁門の変に破れた長州藩軍真木和泉守は、天王山で兵とともに自害しました。そんな生臭い故事よりも、大手酒造会社のウイスキー醸造所が、この山の麓にあることの方が今ではよく知られているかもしれません。
そしてもう一方の麓に山崎離宮八幡宮が鎮座されています。この神社に祭祀されている神様のうち御一体はお酒の神様(酒解大神。さかとけおおみかみ)ですから、ウイスキー醸造所が置かれたのには意味があるのです。でもこの神社は「油祖」として私ども製油業界が崇敬している神様でもあります。
嵯峨天皇の離宮跡地であるこの地に、宇佐八幡神が分祀されたのは貞観2年(860年)とされています。石清水がこんこんと涌きいでていたことから「石清水八幡宮」とも称されています。日本三大八幡宮の一つ、京都府八幡市の男山石清水八幡宮は、山崎離宮八幡宮の分社の一つとされています(これには様々の説があります)。
【 図1 山崎離宮八幡宮 】
資料:山崎離宮八幡宮提供
お酒の神様が「油祖」となった由縁は、この神社の神官(大山崎の長者との説もあります)が我が国初の搾油装置を発明し、植物油ビジネスの拠点となったことにあります。平安時代とも鎌倉時代とも伝えられていますが、神官が長木(ちょうぎ)と呼ばれる、梃子の原理を応用して強い圧力をかけることができるエゴマの搾油装置を発明し、これを契機にこの地でエゴマ油の生産が始まります。今日でいえば特許権あるいは専売権になりますが、離宮八幡宮には油の専売権が付与され、油座を形成します。油の商売を行うには神社の承認が必要であり、その運上金収入で神社と山崎の里は潤い、繁栄の道をたどります。神社の社領はわが国で4番目の広さであったと伝えられ、飛ぶ鳥をも落とさんばかりの繁栄ぶりであったことが窺えます。離宮八幡宮から権利を与えられた油商人は、天下御免の通行が許可されます。各地の関所でその権利証は水戸黄門様の印籠のような力を有し、油ビジネスは全国に広がり、九州にまで足を伸ばしていたとの記録があります。
油だけではなく、地理的位置も山崎を繁栄させた要素だったのでしょう。桂川、宇治川、木津川の3川は山崎の地で合流して淀川となり大坂~京都間の水運を担いました。山崎はその重要な中継地でもありました。
司馬遼太郎著「国盗り物語」では、油商人山崎庄九郎(後の斎藤道三)が離宮八幡宮の参道で、口上を述べつつ油を売る姿が描かれていますが、無論これは創作でしょう。八幡宮に伝わる油商人の図に「宵ごとに 都に出ずるあぶらうり 更けてのみ見る山さきの月」の和歌が添えられています。当時のエゴマ油の用途は灯りと塗料(和傘や家屋など)でした。夕刻になり、油が切れたことに気付く頃を見計らって山崎の油売りが都に現れ、商売をしていたことを示しています。
また別の油売りの図では「きのふから いまた山さきへもかへらぬ」と書かれています。油売りが、夜を徹することもあるビジネスであったことが窺われる言葉です。
【 図2 山崎の油売りの図 】
資料:図1に同じ
余談ですが、長木は形態こそ少しずつ異なりますが愛媛県内子町の和蝋の圧搾や、もろみから醤油を絞り出す時にも広く用いられた装置であり、イタリアのバージンオリーブオイルの圧搾にも同様の装置が使用されています。オリーブ油には「板締め」という言葉がありますが、この装置に由来する言葉でしょう。
【 図3 山崎離宮八幡宮に伝わる長木の図 】
資料:図1に同じ
ところで離宮八幡宮は村の鎮守(氏神)様ではなく、したがって氏子がいない神社です。氏子の寄進に支えられるのではなく、油の運上金で神人(じにん)と称される多くの人を雇用し、地域の経済を支えてきた歴史を有しています。全国に広がる油商人もまた油祖として神社を崇敬し、運上金を差し出し経済的に神社を支える関係が成立しました。
この繁栄を打ち破ったのは、革命児織田信長の油座廃止令でした。専売権の喪失とともに、繁栄した離宮八幡宮の油ビジネスは衰運をたどることとなりますが、江戸幕府は離宮八幡宮を崇敬し、神社の精神的地位は高く保たれました。
エゴマもまた衰退の途をたどります。戦国時代若しくは江戸時代初めに菜種が到来します。油の含有量が多く、絞りやすい菜種がエゴマに取って代わります。
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