京のあぶらやさん

3.道具だけは大事にせい!

 西川さんに対するお父様の遺訓は、「道具だけは大事にせい!」ということでした。何代にもわたって使用された道具を大切にすることは、そのまま油を大切にすることに繋がります。西川油店の店頭には、販売する商品よりも、多くのスペースを割いて、何代にもわたって使い込まれた黒光りする道具類が溢れ返るように展示されています。その一つ一つを見るだけで、京都の油屋の歴史と道具類に込めた先人たちの思いが伝わってくるような気がします。 さあ、日本の搾油の歴史が一目でわかる道具類にご登場願いましょう。


(1)掛け軸

 トップバッターは、道具ではなく掛け軸です。「別に由緒あるもんやありまへんけど、菜種の搾油工程を描いた掛け軸は滅多にありまへん。面白いのと、お客さんに説明するのに便利なので掛けています。」。図2に示した掛け軸の絵は少し見にくい のですが、上から順番に里山近くで菜種を収穫し、脱穀・乾燥し、すり潰して加熱し、搾め木(しめぎ)で搾り、油を樽に詰めるまでの工程が詳細に描かれ、当時の様子を知る貴重な絵です。この絵が西川油店を描いたものであるかどうか、時代がいつであるかは不明ですが、多くの人達が働いて油を製造する工程が良く理解できます。


【 図2 菜種搾油工程を描いた掛け軸 】
図2 菜種搾油工程を描いた掛け軸


(2)搾め木

 油祖山崎離宮八幡宮の神官が開発した搾油道具は、シーソーの原理を応用した長木(ちょうぎ)でしたが、すぐに搾め木がこれに取って代わりました。実際に使用された搾め木はありませんでしたが、模型が置かれ、その横には実際に使用されていたクサビが置かれていました。クサビの下の木片は“ゲタ”と称して、クサビを滑りやすくする装置です。 このクサビを大きな木槌で打ち込むことによって真ん中の杵の部分に大きい圧力が加わり、油を搾りだします。もっとも、大きな木槌を打ち振うのは骨の折れる作業です。西川油店では、大きな木槌を梁から2本のロープでつりさげ、お寺の鐘つきの要領でクサビを打ち込んでおられました。労働の軽減は、いつの時代でも重要なことだったようです。「それでも職人には重労働だったと思 います。父から、重労働の職人には1日に1升飯を食わせたと聞いてます。」。


【 図3 搾め木模型とクサビ 】
図3 搾め木模型とクサビ


図3-2はレプリカではなく、実際に使用された搾め木の杵の部分を受ける台(臼)の部分で、巨木をくりぬいて作られています。杵に圧力が加わると油が搾りだされ、手前にある穴から油が流れ出るしくみでした。


【 図3-2 搾め木の台(臼) 】
図3-2 搾め木の台(臼)


すり潰し、蒸し上げた菜種は布袋に入れ、搾め木の臼の部分に乗せ、圧力をかけて搾ります。図3-3の左側にある布袋は、植物繊維ではなく人毛で編まれた珍しい逸品です。ただし、西川油店で使用されたものではないとのことでした。右側の道具は、油を満たしたガラス瓶にキャップ(王冠)を打ち込む機械です。


【 図3-3 菜種を搾りだす袋 】
図3-3 菜種を搾りだす袋)


(3)油の振り売り桶

 搾られた油は、振り売り用の桶に詰め、今で言えば営業担当の使用人が天秤棒で担ぎ、街中を振り売りして歩きます。図4-1は、西川油店で使用された 桶と法被ですが、この桶の素材がお分かりでしょうか?実は、この桶は桐材で作られています。働く人の負担を少しでも軽くしようという当時の人達の優しさを、この素材から窺い知ることができるようです。

【 図4-1 油の振り売り桶と法被 】
図4-1 油の振り売り桶と法被


図4-2は、山崎離宮八幡宮に伝えられる油売りの図です。この絵は、室町時代の油売り(多分、エゴマ油)の様子を示すものです。 絵には、「宵ごとに 都に出づるあぶらうり 更けてのみみる やまさきのつき」という歌が添えられています。油商人は、灯明用の油を売るためまだ明るさの残る夕刻に都へ出かけ、商売を終えて帰るころ、月は既に中天高くにあるという、当時の油売りの様子を知ることができます。商人の衣装や桶が変わっても、商売の仕方には江戸末期までほとんど変化がなかったことを示しています。

【 図4-2 油売りの図】
図4-2 油売りの図

資料:山崎離宮八幡宮


(4)店頭でも量り売り

 お店での販売も量り売りでした。図5の容器には油が満たされ、お店に見えるお客様に油を量り売りしていました。 この容器は、幅1m、奥行きと高さが60cmぐらいの大きさで、欅(けやき)の一枚板で作られています。「油道具は何代にわたって使用するもの」という意気込みが伝わってきます。この容器から柄杓で油を汲み出し、竹の簀子を張った容器の上で瓶や油徳利に注ぎます。溢れた油が回収できる仕組みで、貴重な油を一滴たりとも無駄にしない工夫が凝らされていました。「油は温度によってかさ(容量)が変わるので、冬場は加温しながら売ってました。」と西川さん。そのそばには、ハンダとハンダ鏝(こて)が置かれています。「斗缶に油を満たして、ふたの部分を自分たちでハンダ付けしてました。」。当時の油屋には、そんな板金職人としての技術を習得することも必要だったのです。

【 図5 店頭におかれていた油桶 】
図5 店頭におかれていた油桶


(5)油の価格表

図6は、昭和初期の油の値段を示すもので、貴重な資料です。搾油事業を止められた西川油店は、関西の老舗の製油企業から油を仕入れていました。この表は、その製油企業から、新年からはこの値段で取引をお願いしますという通知でした。当時の大手製油企業は、このように手書きの値段表を卸商に配っていたのです。表の前につるされているのは、表面に和歌を彫りこんだ提灯型ランプで、これもなかなか見られないものです。

【 図6 製油企業から示された価格表 】
図6 製油企業から示された価格表


(6)銭函

銭函といっても、北海道の鉄道の駅名ではありません。金銭登録機が開発されるまで、商店には売り上げたお金を入れる銭函が置かれていました。各地の豪商屋敷跡を訪問すると、様々な形の銭函を見ることができます。図7の左側の銭函は、古くから使用されていたものです。紙幣がない時代、硬貨の受け入れ口に、更に大きく口を拡げた枠が上乗せされ、大きめの硬貨を少し離れた場所からでも投げ入れることができるようになっています。西川さんは、この枠を見つけたとき、いったい何に使用するのか分からなかったそうです。時代物を感じさせる頑丈な錠前は、1日の商売が終わった後、店主だけが開けることができました。右側の銭函は、今もご使用になっています。紙幣を出し入れできるよう手前に引き出しがあり、硬貨の受け入れ口が小さくなったのが分かります。頑丈な錠前こそありませんが、盗難防止のため誰もが気が付かない鍵の工夫が施されています。ただし、それは秘密です。「左側は、油屋が儲けていたころの銭函、右は儲からん時代の銭函どす。親父の教えもありますが、古い道具を大切に使うのが私の趣味みたいなもんですな。」。

 【 図7 新旧の銭函 】
【 油屋が儲かった時代の銭函 】
油屋が儲かった時代の銭函
【 儲からない時代の銭函 】
儲からない時代の銭函
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