京のあぶらやさん

1. 日本の漂流船のプレゼント

この地名から、新撰組高台寺党(派)や伊東甲子太郎を連想する方は、幕末の歴史や新撰組にお詳しい方でしょう。それとも、司馬遼太郎ファンでしょうか。ちょっと、血なまぐさい幕末の日にタイムスリップしてみましょう。伊東甲子太郎が新撰組から袂を分かち、禁裏御陵衛士と名乗って分派を結成したのは慶応3年3月(西暦1867年4月)のことでした。その後、東山の高台寺に拠点を置いたことから、新撰組高台寺党とも呼ばれました。慶応3年11月18日(西暦1867年12月13日)、醒ヶ井にある近藤勇の妾宅で酒席を愉しみ、謡曲を吟じながら酔った足取りで歩む伊東甲子太郎の首を、油小路近くの板塀の陰から突き出された槍が貫きます。司馬遼太郎「新撰組血風録」は、北辰一刀流免許皆伝の伊東は、瀕死ながらこの刺客を一刀のもとに切り倒したと描いています。 「当時、この一帯は蛤御門の変で焼かれてしまい、道に沿って粗末な板塀が作られていたそうです。刺客が潜むにはもってこいだったんでっしゃろな。」と語るのは、西川油店の当代西川千大さん。「刺された伊東甲子太郎は自力で数間歩んで、尼寺(本光寺)の前で息絶えたと伝えられてます」と西川さん。伊東甲子太郎終焉の地には、そのことを示す石碑が立てられていました(図1)

伊東甲子太郎の遺体は、新撰組隊士が西川油店の前を引きずるように運び、七條油小路の辻(交差点)に遺棄されました。そして、遺体を収容に来た高台寺党の数名を新撰組が襲います。藤堂平助、服部武雄など数名の高台寺党隊士がこの戦闘で命を落としました。「血まみれになった高台寺党のお侍が、うちの店に駆け込んできて裏道へ逃走したとおじいさんから聞いてます」(西川さん)。そんな物騒な場所で、西川油店は油商売を続けてこられました。

余談ですが、結成当初壬生に屯所を構えた新撰組は、隊士の増加に伴い西本願寺に仮屯所を移し、次いで、いまリーガロイヤルホテルが立つ場所に最後の屯所を構えたとの説があります(霊山歴史館 木村幸比古氏説)。地元の歴史を研究されている西川さんも この説を支持されていますが、最後の屯所が機能する間もなく鳥羽伏見の戦いが始まり、新撰組の凋落が始まります。ちなみに、同ホテルの前には、そのことを記す石碑が建立されています。

【 図1 本光寺前に立つ高台寺党殉難碑 】
図1 本光寺前に立つ高台寺党殉難碑
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